「愛される」ことと交換している「輝き」
5月19日(金)銀座にて「調和のコミュニケーション」クラスを開催します!
今回は超少人数制!詳細はこちらをご覧ください。
→ 東京にて調和のコミュニケーション開催
大阪は上記写真で一緒に写っている吉田ひろみが5月27日に開催予定で準備中ですよん。
では、本題!
本当のことを話す。
なにも重大なことに限らず、
今、何が食べたいかといった
日常のちょっとしたことであっても、
言えない方がいらっしゃいます。
今、自分自身が感じていることを
正直に軽やかに言えないのですね。
どうしてか、というのを観察していて
気づいたのは、
「気に入られる」「好かれる」ということに
フォーカスしているケースが多い
ということです。
子供の頃って、母親とか父親に
気に入られないといけないですよね。
なんだか、本能的にそれを察知する。
それは、小さな子供にとって
安全に快適に生きていくための
かなり大きなポイントだと思います。
だから、生きるために自分を曲げる。
まあ、曲げていいんです。
何も知らないわけですから
主に育ててくれる相手から
この世界のルールといったものを学ぶわけです。
これがよくて、これがダメ、
そういうことを知る必要があるわけです。
でも、これが過度になると
「そこは自分の思うままで問題ない点」までも
相手の好みに装うことが癖になるんじゃないかしら。
そして、大人になっても
「何が食べたい?」という問いに
自分の好みではなく、相手の好みを考えてしまう。
そんな感じで相手の好みに合わせて
結果、うまく気に入られたとしても
心の平安はありません。でしょ?
だって、「無理している自分像」を
やり続けないといけないですものね。
だからこそ、私は
「自分の考え、自分の感覚」を
そのまま表現して自由に生きることを
提案し続けています。
そのままの自分では、
子供の頃は愛されなかったかもしれない。
しかし、今や大人になって世界へ出ると
ものすごい数の人間がいるわけです。
何かに無理やり擬態しなくても
好きになってくれたり
愛してくれたりする人はいるんですよね。
どうせ愛を求めるならば
「無理やり何かに擬態した自分」ではなく
「自由に生きる自分」を見せて
それを愛してくれる人々と共に生きる方が
快適だし、安らぎませんか?
私は私に気に入られようとして話すひとが
とても苦手です。
そこに「そのひと」がいないから。
空っぽのお人形さんと話しているようで
つまらないのですよ。
もちろん、相手が自由に個性を表現し、
それが私と合わない。
私が自由に生きていて、
相手がそんな私を敬遠する。
そういうこともあります。
でも、それは
大した問題じゃないんですよね。
関係性が続くとか
続かないとか、
どっちにしても
大した問題じゃないんです。
相手に気に入られるために
心の平安を失っていく。
本来の輝きを失っていく。
そっちの方が大問題ですよ。
愛される、ことを追いかけて
幸せに生きることを失っているなら
もう、愛される、なんて
やめちゃってもいいよね。
自由にやってても、
不自由にやってても、
誰かには嫌われるし、
誰かには愛されるし、
誰かには存在すら知られない。
自由に生きた方が楽しいですよん。